中国の歴史書の『後漢書』倭伝、『魏志』倭人伝、『隋書』倭国伝などが、日本のことを「倭」と、日本人を「倭人」と示したので、それに従っていたのです。「倭の五王」のように中国の皇帝から将軍名をもらっていた時期もありました。

当時の倭国は、朝鮮半島の百済や半島南端の加羅(加耶)諸国と軍事的にも交易的にもアライアンスを結んでいて、独立国家というほどではなかったのだろうと思います。それが百済に軍事的支援を頼まれ、倭国は663年の白村江の海戦に臨むのですが、そこで新羅と唐の連合軍に完敗してしまった。

斉明天皇から天智天皇にバトンタッチがされた時期でした。このときに「日本」という国名がほぼ決まっていったと思われます。『三国史記』新羅本紀には「670年に倭国が国号を日本に改めた」と記されていた。

律令としてこうした表記が制度化されたのは701年の大宝律令でのことでした。だから制度史的には「日本」という国号は701年に成立したのです。

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