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  • 西洋の伝統音楽は全くの静寂な状態から音符の上に音符を積み重ねて曲を作ろうとするけど、非西洋では作曲についてまったく別の考え方を持っている地域が多くある。例えば、インドの弦楽器のタンブーラは楽器から出される豊かな音の上で即興演奏を行うけど、そこでミュージシャンが即興で使う音はドローンの中にすでにある。だから、インド古典の伝統ではドローンの音が高い価値をもつと考えられていて、その考え方が浸透している。西洋音楽では、静寂の中からはじかれる弦の音が重要だと考えられているけど、インドのタンブーラでは、既に鳴っている音、つまり叩かれていない音こそが重要だとされている。インドの音楽の哲学には西洋の音楽にはない、既にある音や振動に対する「繊細さ」があるの。

  • モジュラーと向き合うことで、物事は常に自分のコントロールの及ばないところにあるということを思い知らされる。そして、それは人生についても全く同じことが言えるし、そのことを受け入れるのはとても美しいことだと思う。「コントロール」と「委ねる」ことのバランスを見つけるのは、人生の練習でもあるからとても難しい。自分の直感に従うだけだと思う。音楽も人生も、飼いならしたりコントロールしたりするには美しすぎる。人生をコントロールできるというのは幻想で、その無常さこそに美しさがあるの。

  • 綿密に設計された、文字通り「なんでもできる」テクノロジーは、人びとを受動的にさせる。テクノロジーの世界では「洗練された体験」という言葉があって、その言葉は、あらゆる制限や問題、摩擦を消し去り、快適な体験を与えるようにすることを指しているけど、私はむしろ制限や障害、緊張があることはいいことだと思ってる。「OK。このマシーンや場所にはこんな制限がある。じゃあどうすればいいんだろう?」といった問いかけは、人間の創造性を高めてくれるもの。制限や限界を克服する過程で、人間の創造性は解放されるから。友人のピーター・レーバーグは「コンピューター・ミュージックが本当にクールだったのは、デジタル・ソフトウェアが十分に安定しておらず、コンピューターに不具合や奇妙なことがよく起こっていた頃だった」とよく話していて、コンピュータが安定してきたお陰でコンピュータ音楽はむしろ退屈になったと言っていた。こういった考え方を持つのはいいことだと思う。

  • モジュラー・シンセサイザーのテクノロジーはとてもミステリアスで、人間との間の摩擦を減らすどころか、むしろ抵抗してくるような感触がある。私はいつも「こうやって動いて」と思って操作するけど、大抵は思ったように動いてくれないから、別の方法を探さなければならなくなる。これは機械と格闘しているような感じだけど、同時にとても刺激的で儀式的な練習になる。

  • 正直言って、現代社会における人間とテクノロジーの関係性に関して創造的だと言えるものは少ないと思う。多くのテクノロジーは、人間のアイデアや欲望を効率良く実現することに最適化されていて、プロセスにおいてどれだけ摩擦を減らすかということが焦点となっている。個人的にはこのアプローチに対して創造性を感じることはない。私にとって、テクノロジーを使って仕事をするということは、機械と対話することであり、機械そのものからインスピレーションを得ることで、アイデアをそのまま具体化するようなことは期待していない。

  • 天ぷらは揚げる食材によって適切な温度が異なります。

    野菜類 → 170度

    魚介類 → 180度

    が目安です。最近では、温度計付きの揚げ物鍋も販売されており、これを使えば簡単に温度管理ができます。ただ、温度計がない場合でも、衣を少量油に落とすことで簡単に温度を確認できます。

    ・150〜160度(低温)
    → 衣が底まで沈んで、ゆっくり浮き上がってくる。

    ・170〜180度(中温・野菜向き)
    → 衣が途中まで沈んで、徐々に浮き上がってくる。

    ・180〜190度(高温・魚介類向き)
    → 衣がすぐに浮き上がってくる。

  • 南ヨーロッパはより保守的でカトリック色が強いからオルガンを利用するのが難しいけど、他のプロテスタントの地域では教会で世俗的な音楽を演奏することを受け入れてくれる場合が多い。

  • 私たちの現在の音楽のパラダイムは、12平均律という文化的ヘゲモニーの下にあって、ハーモニー表現のパレットはとても限られている。

    ハーモニーの標準化は人びとの音楽に対する認識にも大きな影響を与えている。例えば、完全四度音は「美しく調和的」、三度音は「不気味で極悪非道」とか、音程に対しては様々な文化的固定観念があるけど、これは標準化によって植え付けられた非常に還元的で単純化された認識のあり方。

    少し聴いてみただけで、ああ、これは悲しい歌なんだなとか、楽しい歌なんだなと分かってしまうような音楽を自分がやりたいとは思わない。むしろ私は楽しいコードなのか悲しいコードなのかがまったく分からないような曖昧で複雑な音楽を好む。何回も繰り返し聞くことによって、理解がまったく変わってしまうような音楽ね。例えば、最初に聞いた時は、悲しかったり、不気味な感じがするんだけど、10回くらい聞いてみると、突然、恍惚として幸せな気分になったりするように。

  • 1994年、LVMH(モエ・ヘネシー・ルイヴィトン)の会長兼CEOのベルナール・アルノー氏と契約を結びます。

     数シーズン、LVMHが所有するジバンシーでコレクション(クチュールとプレタポルテ)を発表した後ディオールのデザイナーに抜擢されます。ディオールはLVMHグループの中で最も大切にされている老舗ブランドで、まさにラグジュアリーブランドの頂点と言える存在です。そのビジネス規模はジバンシーの数十倍。

  • 「倭」という文字は「委ね従う」とか「柔順なさま」という意味をもつ漢字で、中国人が古代日本人の様子や姿恰好や行動からあてがった暫定的な当て字ですが、渋々というより、まだ漢字の意味を十全に理解していなかったわが祖先たちは、自国を「倭」と称します。

    「倭」を日本側(朝廷)は「ヤマト」と読むことにした。8世紀の天平年間のころには「和」の文字が定着し、そのうち日本国のことを「大和」「日本」「大倭」などと綴るようになったのです。

    どうしてヤマトという呼称が広まったかといえば、初期の王権の本拠が奈良盆地の大和の地にあったからで、やがてそれが畿内一帯に広がり、さらには日本国の呼称を代行するようになったからだと思われます。ヤマトを地理的に一番狭くとれば、大和は三輪山周辺のことをさします。

    語源的にいえば、もともとヤマトは「山の門」です。奈良盆地から大阪側を見ると連綿と続く笠置山・二上山・葛城山・金剛山と続く山々を眺めていた大和人たちが、自分たちの土地を「山の門」と言いあらわしたのでしょう。ここに大和政権が誕生し、飛鳥・藤原・奈良時代がくりひろげられた。それで国の名をヤマトにした。そういう経緯だったのだと思います。

    奈良時代の次は平安時代ですが、そこは今度は山城国と称ばれました。ヤマシロとは「山の背」(やまのせ・やまのしろ)のことです。平安京からすると、あの奈良の山々が背になったのです。山城国は山背国であったわけです。